毎日・記者の目 竹内良和(東京社会部)
東京オリンピックの開催意義として東京都などが掲げた「復興五輪」は、世間に開催を容認させる目くらましに過ぎず、被災地は踏み台にされた。東日本大震災の直後から現地を取材し、五輪開催の起点を作った都庁を計4年半担当した身として、五輪の閉幕後に改めて痛感している。
◇反発かわすため大義名分不可欠
ほこりをかぶった衣類がつるされたままの商店や、壁が破れて茶の間が見える民家が軒を連ねる街で、小鳥のさえずりだけが聞こえていた。東京五輪の中止も取り沙汰された5月、東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県双葉町の中心部を歩いた。「TOKYO 2020」の派手なバナーがはためく喧騒(けんそう)の街・東京との落差は激しかった。
双葉町でも3月下旬、五輪聖火リレーがあった。震災後に整備されたJR常磐線双葉駅前の広場をぐるりと回るルートで、町民らからは「町全体が復興したように見えてしまう」などと不満の声が上がった。町は復興途上の現状を伝えるため、被災した街並みがよく見える約160メートルの町道もルートに組み込むよう望んだが、大会組織委員会は認めなかった。
この町道は避難指示区域にあるが、空間放射線量は下がり、政府も来春の町民帰還を見据え自由な立ち入りを認めている。だが、組織委は「解除区域がルートの前提だ」などと受け入れなかった。伊沢史朗町長は「何か問題が起きたら誰が責任を取るのかという話になるので、『はい』とは言えなかったのだろう」と事なかれ主義を指摘した。被災地に寄り添えなかった組織委の姿勢が浮かんだ。
「復興五輪」は震災約4カ月後の2011年7月、五輪招致への立候補を表明した都や日本オリンピック委員会(JOC)が掲げたものだ。招致挑戦を公約に4選を果たした石原慎太郎都知事(当時)が同年6月の都議会で「大震災から立ち直った9年後の日本の姿を披歴する」と演説したのに端を発する。被災地の復旧が求められる中、招致レースに挑むことへの反発をかわすため大義名分は不可欠だった。石原氏は19年、都庁担当だった私の取材に「五輪を復興に結びつけたいとは思わなかった。役人のレトリックだろ」と話し、都官僚の文案をなぞった演説だったと認めた。
石原氏が演説したころ三陸沿岸では、避難所での雑魚寝生活に疲れ果てた人たちから、仮設住宅への入居を心待ちにする声を数え切れないほど聞いた。発災4日目に震災が「天罰だと思う」と発言して怒りを買った東京の知事が、一転「復興五輪」を掲げたことなど話題にするのもはばかられた。三陸の人たちは東京一極集中で手塩に掛けた子や孫が古里を離れ、過疎高齢化が進んでいることをよく知っている。そもそも復興をうたいながら競技の大部分を都内で開き、東京の独り勝ちを加速させることが東北にとって何のメリットになるのか、説明がつくはずもなかった。
招致活動が熱を帯びるに従い、さらに被災地との温度差は広がる。原発事故による放射線被害の懸念が海外で高まると、招致委員会は事故を想起させる復興のアピールを抑え、インフラや財政力など大会運営能力の高さを前面に押し出した。東京五輪開催が決まる13年9月の国際オリンピック委員会総会の直前、記者会見で海外メディアから原発の汚染水漏れを懸念する質問が相次いだ。JOCの竹田恒和会長(当時)は不安の払拭(ふっしょく)に努めようと「福島から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」と答え、「差別的だ」との反発が相次いだ。
◇不都合な事実を美辞麗句で隠す
毎日新聞が今年3月の震災10年に合わせて岩手、宮城、福島県で実施した世論調査では、五輪・パラリンピックが「復興の後押しにならない」が61%に達し、「後押しになる」の24%を大きく上回った。新型コロナウイルス禍もあって復興の言葉はさらにかすんだ。競技が始まってから、組織委の橋本聖子会長は「復興なくして、東京大会の成功はない」「(東北が)未来に向かって希望を持てる事業を今から生み出すことができないか考えたい」と強調したが、組織委は大会後、残務処理を経て解散する。美辞麗句で不都合な事実を覆い隠したとしか思えなかった。
大会では、被災地出身の選手が活躍するなど、スポーツが持つ力が東北を勇気づけた面があった。それでも「復興五輪」のゆがみは歴史に刻まれ、検証されるべきだ。うやむやになれば、被災地を踏み台に巨大イベントを容認してしまった社会の病理を放置することになるからだ。私たち一人一人が被災地にどう向き合ってきたのかを省みることから始めたい。