毎日新聞の記事です。
◇真鍋さん受賞「痛快」
大ベストセラーとなった著書「国家の品格」(2005年)で拝金主義がはびこる日本に警鐘を鳴らした数学者の藤原正彦さんは最近、ますます憂いを深めているという。東京都内にある仕事部屋で話をうかがっていると、研究資金の獲得のためにあくせくする後輩研究者らの窮状を嘆き始めた。
「今は役に立つかどうか、ばかりです。例えば、競争を導入しようと国は競争的資金というものを作りましたね。『何年後に役に立ちますか』といったトンチンカンなことを尋ね、3年後とか5年後とかに役立ちそうなものに研究費を与えています。これを取らないと研究に支障が出るから研究者は必死です。日本中の大学の先生がいかにも役立ちそうに見える作文を書いて、申請書類を山ほど提出している。それに追われて研究時間を奪われています」
国は04年度以降、国立大学に対し、研究者の雇用や研究資金の原資となる運営費交付金を段階的に削減してきた。半面、近年は特定分野に研究費を重点配分する「選択と集中」を進めている。より実用化が期待される分野に投資を、というわけである。
だが、お茶の水女子大教授を09年まで務め、現在の研究現場の状況にも詳しい藤原さんが感じるのは、むしろ弊害のほうだ。
「人件費が減り、大学のポストが任期付きのものばかりになってしまいました。国立大では40歳未満の常勤教員のうち、『任期なし』はほんの30%ほどです。2年や3年といった任期付きでは腰を落ち着けて研究などできません。深刻なのは博士課程進学者の数で、この状況を見て十数年で半減してしまいました。これでは日本の科学技術の未来はありません」
研究資金がすぐに役立つ分野や流行に偏れば、研究力全体の低下にもつながりかねない。「『役に立たない』は必ずしも『価値がない』を意味しません」と国の方針に疑問を呈する。
実際、世界的に影響力のある論文数の国際比較で日本は毎年、順位を落としている。文部科学省科学技術・学術政策研究所によると、最新の比較(17~19年)ではインドに抜かれ、過去最低の10位に沈んだ。他の研究者に引用される回数が上位10%に入る論文数は、トップの中国の1割未満という有り様である。そうした中、以前に増して懸念されているのが、日本の研究者が海外に活躍の場を求める「頭脳流出」だ。
「中国の(外国人研究者を集める)『千人計画』に日本人が参加することに批判的な声もあります。気持ちは分かりますが、研究者というのは研究に命を懸けています。潤沢な研究費をくれるなら、どこへでも行くと考えてよい。研究者が中国に行くことを政府が恐れるのなら、大学への交付金を大幅に増やさないといけません」
その点、今年のノーベル物理学賞に気候変動予測の基礎を築いた真鍋淑郎(しゅくろう)・米プリンストン大上席気象研究員(90)が決まったことは痛快だったようだ。実は藤原さん、真鍋さんとは縁がある。大伯父で中央気象台長(現・気象庁長官)を務めた気象学者、藤原咲平の孫弟子に真鍋さんが当たるからだ。今回の快挙には、身内が受賞したようなうれしさを感じている。
「半世紀前は誰も気候変動などに興味を持っていなかった。だからすごいのです。すぐに役に立つうんぬんじゃないところからノーベル賞は生まれる。逆に言えば、3年後やら5年後やらに役立ちそうな研究などに真に独創的なものはないと思ってよい」
真鍋さんも受賞の記者会見で若手研究者に向け、「はやりに走らず、好奇心に基づいた研究をしてほしい」とエールを送っていた。藤原さんは素粒子ニュートリノの観測で、02年に同じくノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さん(昨年94歳で死去)の言葉を思い出すという。
「受賞後に『先生の研究はどのくらいたったら役に立ちますか』と聞かれ、小柴さんは『500年たっても役に立ちません』と断言しました。素晴らしい言葉です。ニュートリノ発見は人類の英知への貢献です。こういった研究にお金を出して支援するということが、品格ある国家です」
累計発行部数270万部を超える「国家の品格」で藤原さんは、日本人が「市場経済に代表される欧米の『論理と合理』に身を売ってしまった」と指摘した。拝金主義とも言うべき風潮に危機感をあらわにしたのだ。
今読んでも内容が全く色あせていないと感じるのは、本質的なところで日本が変わっていないからだろう。惻隠(そくいん)の情(他者を思いやる気持ち)やひきょうを憎む心、あるいは「もののあはれ」といった日本人が生来持つ「情緒」が失われ、国家としての品格が低下した--と同書にはつづられている。
「幕末から明治初期に来日した外国人は異口同音に『日本人はみな貧しい。だけどみんな幸せそうだ』と言いました。欧米人にとって、貧しいことは不幸せなことであり、恥ずべきことであり、みじめなことです。だけど日本人は、誰もそうは思っていなかった。一番威張っている武士が一番貧乏だったのですから」。藤原さんはそう話す。
こうした日本人の美徳や国柄は明治維新や第二次世界大戦を経て次第に薄れていく。戦後も半世紀を過ぎた頃になって「徹底的に破壊された」と藤原さんがその影響を指摘するのが、「構造改革」を掲げた小泉純一郎政権の頃から台頭した新自由主義だ。
新自由主義とは政府の介入を極力小さくし、市場原理に基づく競争によって経済成長を目指す考え。欧米から入ってきた「論理と合理」の一つでもある。その「伝道者」として知られ、くだんの小泉政権で経済財政担当相を務めた竹中平蔵氏(現・人材派遣大手パソナグループ会長)は、第2次安倍晋三政権や菅義偉政権でも政府の有識者会議のメンバーとして、国の経済政策に影響を与え続けた。
◇お金もうければ幸せなのか
新自由主義は何をどう変えたのか。冒頭のように学問の世界を含め、あらゆる局面で経済合理性や効率性が問われるようになった、と藤原さんは感じている。富める者はより豊かになり、持たざる者は切り捨てられる。「新自由主義には利潤を最大にすることが人間の幸せ、という大前提がありますが、お金をもうければ、人間は本当に幸せになれるのか。ここに根本的な問題があります」
コロナ禍で非正規雇用者の解雇や雇い止めが相次いでいるように、新自由主義が格差拡大の原因になった、との指摘も聞こえてくる。安倍政権の経済政策「アべノミクス」の下、日銀の大規模な金融緩和で円安が進行し、輸出関連企業を中心に企業業績は回復した。それに伴って株価も上がった。だが、景気回復の実感を持てた人がどれほどいたことか。「労働者の賃金は上がらず、大企業の内部留保ばかりが500兆円近くにまで膨らみました。株を買う金持ちだけがもうかり、庶民はじりじりと貧しくなっているのです」
ここ20年あまり、新自由主義を進める日本などの各国政府は、大企業や富裕層が潤えば、中小企業や貧困層にも恩恵が広がると主張してきた。いわゆる「トリクルダウン」だが、藤原さんは「世界中どこでも実現していない。真っ赤なウソでした」と喝破する。日本では「弱肉強食を正当化した自己責任論」も幅を利かせるようになった。「日本人が大切にしてきた情緒である弱者への涙、すなわち惻隠の情を忘れた国家に成り下がってしまったのです」
さて、衆院選である。岸田文雄首相は自民党総裁選を通して「新自由主義からの脱却」を表明した。「画期的な方針」と藤原さんは歓迎するものの、懸念もある。小泉、安倍、菅の3政権が進めた経済政策を否定することになり、彼らやその周辺からの反発が予想されるからだ。緊縮財政からの転換には財務省が難色を示す可能性も高く、実際、財務事務次官が衆院選を控えた各党の政策論争を「ばらまき合戦」などと批判する論文を月刊誌に発表し、波紋を呼んだ。
一方で新自由主義からの転換には野党の多くも賛成しており、藤原さんは「与野党が一致団結して取り組んでほしい」と願う。どこが政権を担うかばかりが注目されがちだが、もっと本質的なところに目を向けてほしいと言う。
「みんなが公平な条件の下で自由に競争したら、勝つ者は勝ち続ける。負ける者は負け続ける。人間というのはそういうものです。人間の尊厳は完璧に平等ですが、能力は不平等なのです。ボクシングだってヘビー級とフライ級を一緒に戦わせません。新自由主義の根幹である自由競争を規制し、弱者や地方のための大がかりな財政出動をしない限り、日本を再生することはできません」【金志尚】
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■人物略歴
◇藤原正彦(ふじわら・まさひこ)さん
1943年、旧満州(現中国東北部)生まれ。東京大理学部卒。数学者。お茶の水女子大名誉教授。作家の新田次郎、藤原てい夫妻の次男。自身も作家として「若き数学者のアメリカ」「国家の品格」「国家と教養」など著書多数。